2011年 04月 05日
文系の言葉 理系の言葉
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学校の先生というのは、実は面白い人が多い。
とくに、高校あたりでは、
はじめから教員になろうとして、教育学部を出たような人は皆無に近くて、
比較的マニアックな学部、学科、
つまり、経済学部みたいなつぶしの利く世界ではなくて、
もっと学問に直結した、たとえば史学科とか、哲学科とか、
そこ出てどうするの、みたいなツッコミの入る、
そんな専攻で学んだ人が結構多い。
かくいうわたしの出た、造形学部美術学科なんていうのも、
教員以外はあまり堅気の職には就けない、・・たぶん。
で、そういう所で、本当は研究者になりたかったような人が、
まぁ生活もしなくてはならず、教員などになっていることがままあるのが、高校の職員室だ。
(そういうのを不真面目だという向きもあるかもしれないけれども、
学問というのは、本当にそれを愛している人から教わるのが一番だ。
だからそれはとてもいいことだと思う)
まぁ、昨今の少子化の折、あまり浮世離れしたような人は、教職に就く事自体が難しいのだけれど、それにしても、似非インテリな人材には事欠かないのである。
さて、そういう、「かつてちゃんと学問をかじった人たち」とお話しするのは楽しいことだ。
わたしはベタに文系の人間で、社会や国語の教員に気の会う人が多かったのだけれど、理系の、特に数学の先生などの中には、時々えらく楽しい人がいたものだ。
彼らとは議論の前提や、スタート地点がまるで噛み合ないことが多いのだけれど、
巡り巡っていざ結論、という段になると、あら不思議、同じ結果にたどり着いていたりする。
これはわたしの持論なのだが、
文系というのは、まず直感で真理を提示し、それの裏付けを研究する傾向がある。
一方の理系は、論理を構築していって最終的に真理に至るのがセオリーだ。
真理にたどり着けさえすれば、出だしが180度違っていても何の問題もない。
むしろそのアプローチのギャップみたいなものがとても楽しかった。
前置きが長くなった。
物事を語るとき、人はだいたい文系の言葉を使っている。
「これすごく美味しい、人生で5本の指に入るね。」といえば
ああ、味に相当感動したのだということは伝わる。
しかし、
すごいってのはどのくらいなのか?
5本の指に入る、その5本に序列はないのか?
そもそも、これとその他4本とは同じメニューか?
そうでないすると、カツ丼のうまさとカレーのうまさは比べ得るものなのか?
こういうことを考えだすと、この文系的な言葉は、どうにも不正確きわまりないことに気づくであろう。
だからといって、アミノ酸の分量だの、個々人の食生活の分析だのを持ち出して
料理のおいしさを伝えようとしても、まったく伝わらない。
そういう理系の言葉は、例えば冷凍食品の開発室では有効かもしれないが(イメージだけど)
うまい。という漠然とした感覚の前には無力なのだ。
要は、文系の言葉と理系の言葉、
あるいは文系の思考、理系の思考というものは、
それぞれ正しい場所と相手に対して使って、はじめて意味があるということだ。
例えばこうだ
津波が襲う建物の屋上で、「絶対助かるからがんばれ」という。
これは文系の言葉で、そういう場面でそういうことをいうのは、まったくもって正しい。
それは勇気を与える為の言葉であり、そこに根拠だの、分析だのは必要ないからだ。
しかし、原発の放射能の話をするのに、「絶対安全だ」とか、「とにかく危険で何が起こるかわからない」などという、文系思考をするのはどうだろうか?
あの場ではとかく評判の悪い
「食べても健康に直ちに影響のあるものではない」という、おなじみのいいまわし、・・理系言葉が、結局は正しいのではないか?
ワイドショーで、「どこまでが安全なのかはっきりせよ」と息巻く人がいる。
わかりやすく明確なメッセージを出せと。
しかしどうだろう、
たとえば風邪でもないのに市販の風邪薬を飲むのは体に悪くはないか?
悪いとしたら一錠飲んで、体調に異変が起こるものなのか?
一錠なら平気なのか二錠ではどうか?
毎日飲んだら何日目からおかしくなるのか?
いったい、安全な線というのはどこからなのだ?
結局は学者にだってわからないのだ。
わからないことをはっきりさせろという、理不尽なことだ。
むしろ官房長官が「絶対」なんてことを言い出したら、その時の方が危ないと思うのである。
他方、これまたワイドショーで(どんだけ見てるんだろうね)
「すべてのデータを出して、説明をつくせ」というような意見もある。
これは一見冷静で、そのまま受け取れば理系の発想のようにも思える。
思えるが、そもそもすべてのデータを見せられてわかるくらいなら、世の中こんなに騒いでいるはずがない。
今の説明で理解の出来ない人は、百回聞いても理解は出来まい。
そんなことをされても一般人は混乱するだけだ。
こういうことを言う人は、じつは、説明をつくせばはっきりした答えが出ると信じているだけなのではあるまいか?
これはこれでまったくの文系発想なのだ。
とはいえ、この問題に理系的なアブローチをして、それなりの結論を出せる人は数少ない。
だからみんな苛立ってしまう。
わからないことはわからない。
放射能が届かなくなる境界線なんかない。
安全と危険をわける絶対値もない。
だけども今東京にいるわたしは、なんでも飲んで食って、普通に働いていて構わない。
文系の発想で生きる人はそれだけ心に刻んでおけばよろしい。
後は自分のなかの直感が、真理を語ってくれるのを待とう。
とくに、高校あたりでは、
はじめから教員になろうとして、教育学部を出たような人は皆無に近くて、
比較的マニアックな学部、学科、
つまり、経済学部みたいなつぶしの利く世界ではなくて、
もっと学問に直結した、たとえば史学科とか、哲学科とか、
そこ出てどうするの、みたいなツッコミの入る、
そんな専攻で学んだ人が結構多い。
かくいうわたしの出た、造形学部美術学科なんていうのも、
教員以外はあまり堅気の職には就けない、・・たぶん。
で、そういう所で、本当は研究者になりたかったような人が、
まぁ生活もしなくてはならず、教員などになっていることがままあるのが、高校の職員室だ。
(そういうのを不真面目だという向きもあるかもしれないけれども、
学問というのは、本当にそれを愛している人から教わるのが一番だ。
だからそれはとてもいいことだと思う)
まぁ、昨今の少子化の折、あまり浮世離れしたような人は、教職に就く事自体が難しいのだけれど、それにしても、似非インテリな人材には事欠かないのである。
さて、そういう、「かつてちゃんと学問をかじった人たち」とお話しするのは楽しいことだ。
わたしはベタに文系の人間で、社会や国語の教員に気の会う人が多かったのだけれど、理系の、特に数学の先生などの中には、時々えらく楽しい人がいたものだ。
彼らとは議論の前提や、スタート地点がまるで噛み合ないことが多いのだけれど、
巡り巡っていざ結論、という段になると、あら不思議、同じ結果にたどり着いていたりする。
これはわたしの持論なのだが、
文系というのは、まず直感で真理を提示し、それの裏付けを研究する傾向がある。
一方の理系は、論理を構築していって最終的に真理に至るのがセオリーだ。
真理にたどり着けさえすれば、出だしが180度違っていても何の問題もない。
むしろそのアプローチのギャップみたいなものがとても楽しかった。
前置きが長くなった。
物事を語るとき、人はだいたい文系の言葉を使っている。
「これすごく美味しい、人生で5本の指に入るね。」といえば
ああ、味に相当感動したのだということは伝わる。
しかし、
すごいってのはどのくらいなのか?
5本の指に入る、その5本に序列はないのか?
そもそも、これとその他4本とは同じメニューか?
そうでないすると、カツ丼のうまさとカレーのうまさは比べ得るものなのか?
こういうことを考えだすと、この文系的な言葉は、どうにも不正確きわまりないことに気づくであろう。
だからといって、アミノ酸の分量だの、個々人の食生活の分析だのを持ち出して
料理のおいしさを伝えようとしても、まったく伝わらない。
そういう理系の言葉は、例えば冷凍食品の開発室では有効かもしれないが(イメージだけど)
うまい。という漠然とした感覚の前には無力なのだ。
要は、文系の言葉と理系の言葉、
あるいは文系の思考、理系の思考というものは、
それぞれ正しい場所と相手に対して使って、はじめて意味があるということだ。
例えばこうだ
津波が襲う建物の屋上で、「絶対助かるからがんばれ」という。
これは文系の言葉で、そういう場面でそういうことをいうのは、まったくもって正しい。
それは勇気を与える為の言葉であり、そこに根拠だの、分析だのは必要ないからだ。
しかし、原発の放射能の話をするのに、「絶対安全だ」とか、「とにかく危険で何が起こるかわからない」などという、文系思考をするのはどうだろうか?
あの場ではとかく評判の悪い
「食べても健康に直ちに影響のあるものではない」という、おなじみのいいまわし、・・理系言葉が、結局は正しいのではないか?
ワイドショーで、「どこまでが安全なのかはっきりせよ」と息巻く人がいる。
わかりやすく明確なメッセージを出せと。
しかしどうだろう、
たとえば風邪でもないのに市販の風邪薬を飲むのは体に悪くはないか?
悪いとしたら一錠飲んで、体調に異変が起こるものなのか?
一錠なら平気なのか二錠ではどうか?
毎日飲んだら何日目からおかしくなるのか?
いったい、安全な線というのはどこからなのだ?
結局は学者にだってわからないのだ。
わからないことをはっきりさせろという、理不尽なことだ。
むしろ官房長官が「絶対」なんてことを言い出したら、その時の方が危ないと思うのである。
他方、これまたワイドショーで(どんだけ見てるんだろうね)
「すべてのデータを出して、説明をつくせ」というような意見もある。
これは一見冷静で、そのまま受け取れば理系の発想のようにも思える。
思えるが、そもそもすべてのデータを見せられてわかるくらいなら、世の中こんなに騒いでいるはずがない。
今の説明で理解の出来ない人は、百回聞いても理解は出来まい。
そんなことをされても一般人は混乱するだけだ。
こういうことを言う人は、じつは、説明をつくせばはっきりした答えが出ると信じているだけなのではあるまいか?
これはこれでまったくの文系発想なのだ。
とはいえ、この問題に理系的なアブローチをして、それなりの結論を出せる人は数少ない。
だからみんな苛立ってしまう。
わからないことはわからない。
放射能が届かなくなる境界線なんかない。
安全と危険をわける絶対値もない。
だけども今東京にいるわたしは、なんでも飲んで食って、普通に働いていて構わない。
文系の発想で生きる人はそれだけ心に刻んでおけばよろしい。
後は自分のなかの直感が、真理を語ってくれるのを待とう。
by ta-gu-chi
| 2011-04-05 22:25
| つれづれ
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